誰も書かなかった葬儀のお話・・『故人のお顔を撮る』編

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葬儀をやっていると
「故人の顔を撮っても良いのですか?」
とご家族から訊かれることがあります。私は訊かれたなら
「やめましょう」
と告げます。
「きっとお元気だった頃の、バリバリ働いたりお趣味に没頭していた頃の◯◯様を覚えていらっしゃると思います。
そういう元気なお姿を記憶の中に留めておけばいいんじゃないですか?」
こういう風に言うと
「そうですね。わかりました」
と大抵スッキリされていかれます。
 
私は逆に撮る人に訊きたい。
撮ってどうしますか?
毎日眺めるのですか?
誰かに見せますか?
Facebookにアップしますか?
引き延ばしてプリントしますか?
 
便利な時代になり携帯電話にも高性能カメラが搭載され、なんでも撮ればいいと思っているんじゃないのか?
故人は“モノ”じゃない。
せっかく遺影があるんだから、遺影を見ればいいんです。仏壇やご本尊に手を合わせるのです。空見たり海や山を見て思い浮かべるのです。ぼんやり思うくらいが良いのです。
人生はそうやってつらいことも悲しいこともオブラートに包んで、やがて忘れていくのです。前に進むためにはそれが必要なのです。
 
私の両親はもう居ません。もちろん死に顔は撮っていません。
ただ経験上、死に顔の写真は無くて良かったと思っています。
お陰で元気だった頃の、働いてたり怒られたりいろんなことが鮮やかに刻まれています。思い出の中で生きています。
 
死に顔を撮って良いと思うのは、あまりにも若くに亡くなったりして、ほかに写真も思い出も無い場合です。悲しいことですが、現実には多々あります。
この場合はそれが無いと、もしかするとご家族は生きて行けないくらい、つらいかもしれない。撮って良いのはこういった場合だけだと、私は思います。
 
お寺様も、故人の顔を撮るのに反対な方が多いと体感的には思います。あるお寺様は「撮って良いか」訊かれて
「データはどうしますか?消すに消せませんよ」
と言って諭していました。データの管理も悩みますね。わざわざ悩むことを自ら取りに行くことはありません。
 
故人の顔など撮らなくても、大抵は生きていけるでしょう。撮らなきゃ死んでしまうと思うくらいでないと、故人の顔は撮ってはいけません(と、思う)
第一死んだからと、どうしてないものになるのか。肉体がなくなっただけの話。どこかそこら辺にいつもいるのです。
金子みすゞじゃありませんが、見えぬものでもあるのです。
人間をあまり見くびらないでもらいたい。